4月のいやしのミサのお説教

tabijinosato

ヨハネ福音書6章22-29節「イエスのまごころ」

福音書朗読

22:その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
23:ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
24:群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
25:そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
26:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
28:そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29:イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

お説教

今日の福音書はヨハネの6章のですね、真ん中辺りのところのお話なんですが、ヨハネの6章の一番最初のところで、イエス様がこのパンと魚を増やして、5000人の人々が満腹したというですね、パンの増加の奇跡の話があってそこから出発して、このヨハネの6章は、その後にいろいろなエピソードとかイエス様の話が語られている。イエス様のパンの増加ですよね。パンと魚を増やして、多くの人が満腹したという。それを私達がどう受け止めていくのかということを、問われているというふうに思います。

この釜ヶ崎ではもう明らかに、やっぱり、パンの増加の奇跡にもかぶるのはどう見ても炊き出しですよね、炊き出しで、やはり多くの人が…満腹するかどうかわからないけど…ともかくご飯を食べることができて、それで、飢えをしのいでる人がたくさんいることは、昔からずっとそうなわけです。

皆さんの中で炊き出しを食べてる側の人もいれば、あるいは炊き出しを作ってる側の人もおられるし、両方のことがあるとは思うんですけれども、この食べ物と、命の関係っていうのも、イエス様は、「この朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物のために働け」という、単にこの世の食べ物じゃなくて、永遠の命に至る、その食べ物、それをいただいてそれを生きなきゃなんないということをイエス様がおっしゃってるわけなんです。でも「永遠の命に至る滅びない食べ物」っていうのは一体、私達にとって何なのかっていうことも問いかけなきゃならないことだろうと思います。でも、普通に考えても、食べ物は、もちろんその素材があって、それを作る人がいて、食べる人がいるということで、一番大事なのは何なのか、実は僕料理研究家の土井善晴という人が好きで、割とその本とかよく読んでるんですけど、やっぱりね、一番大事なのはもう作る人のまごころだと思うんですね、実際。
ご飯とか命で一番大事なのは、それなんかどういう気持ちで私達が食べるのかという、もちろん例えば炊き出しに並んで、もう本当にね、食べるものがなくて、もうその飢えを満たすだけで、それで満足って言ったらそうなんですけど、家庭でお母さんが作る料理とか、あるいは炊き出しでボランティアの人が作るものっていうのは、やっぱりまごころがどうしても入ってるっていうのかな。ただ単に、仕事で作ったわけじゃないわけですから。家庭だったら子供のためにって、炊き出しだったら、やはり飢えてる人のために心を込めて作ったりするわけです。

だから、食べ物は、どうしても、なんていうか、ただ食べるだけの話じゃないっていうかですね。食べるっていうところにも必ず人間のまごころがあって、そのまごころをいただくものなんです。だからこのイエス様がパンを増やしたときに、何が大事かっていうとやっぱりイエスのまごころが一番大事なんですよね。だからそれを食べて、「ラッキー」と思って食べるだけじゃなくて、あるいはもう、「なんかこの人、このこの人はすごいな」と思って。単に何か食べて満腹したとか、それで、「すごいな」っていうことを超える…イエス様の奇跡の中にはもう必ずイエス様のまごころっていうか恵み情っていうか、それを私達が受け取れるかどうかだろうなって感じます。イエス様の話にしてもそうですが、私達が「食べる」ってことには必ず、作ってる人がいるし、諸素材っていうか、ご飯だったりお肉だったり、そこにも何か大自然の自然の命というかまごころがあって、それを私達が食べる、そういう気持ちで食べるときに、何かこの永遠の命に繋がる何かが生まれてくるんじゃないかっていうふうに思うんです。そのまごころを受け取れるときに、感謝の気持ちとか、ありがたい気持ちになるからこそ、頑張って生きていこうとか、前を向いて歩いていこうという、気持ちとか力が湧いてくるっていうか。

なんかそういうことを私達が受け取っていけるかどうか。だからこのミサは癒しを願うミサなんですが、やっぱり人間が癒されるというのは結局、神のまごころと、周りの人のまごころを受け取れて、受け取っていくかどうかっていうことに尽きてるんじゃないかと思うんですよね。例えば何かお祈りして、たまたま病気が治ってラッキーだったっていう、あるいはね、この薬飲んだらそれが効いて、それで良かったなっていうことで病気がやされるのは、やっぱそれは単に何か物理的な問題で、やっぱりこの永遠の命に繋がるものではないだろうと思うんですよね。
そういう何か命に繋がる人間のまごころと神のまごころが、重なるところで、癒しの恵みや、本当に生きていく力とかエネルギーとかが与えられる。だからこそ、そのために、イエス様はただ単に腹を満たすために、パンを増やしたんでもないし、私達の永遠の命に繋がる力とエネルギーを、私達はいただいている以上、それをまた分かち合っていく。恵みの中でですね、何かの命がやっぱり広がっていく。
だから永遠の命も物理的に考えるよりも、何かまごころの積み重ねの中で、何か現れてくるんじゃないかと。それは本当にイエス様の十字架と復活があるから、もちろんそうなんですけど、時々思うんですけど「イエスの御心」ってカトリックで言うんですけど、あれは「イエスのまごころ」って言ったらいいかなと思うんですけど、イエス様の心が本当に表れている。ミサにしてもですね、やっぱりイエス様の心が現れてるから、私達は霊的なところで、強められたり励まされたり、その恵みで私達は生きていくわけですから、そのような恵みと力をいただいていけるように、お祈りしましょう。

自分自身にそれが与えられるだけじゃなしに、病気の人は、追い込まれてる人が多いですから、そういう人に、神様の本当に癒しの恵みが、神様のまごころを受け止めて、そこから生きる力とエネルギーをもらって歩んでいけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。

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