釜ヶ崎の歴史

tabijinosato

 旅路の里は大阪の釜ヶ崎にあります。
 釜ヶ崎という地名は聞いたことがある人も多いでしょう。
 釜ヶ崎という地名を聞いて何をイメージしますか?
 正直言って、あまり良いイメージではないかもしれません。
 釜ヶ崎にも長い歴史があり、政治や社会に翻弄された歴史があります。
 その一端を簡単にまとめてみたのが、以下の「たび次郎」と「さとこ」の会話です。

ナビゲーターのプロフィール

たび次郎:釜ヶ崎のことならなんでも知っている地域猫。年齢不詳。

たび次郎
たび次郎

さとこ:旅路の里によく来る大学生。お母さんは釜ヶ崎でずっとボランティア活動をしている。

さとこ
さとこ
さとこ
さとこ

昔の釜ヶ崎はどんなところだったのかな。今は高齢者が多い町だけれど・・・

たび次郎
たび次郎

そうじゃのぉ。釜ヶ崎の歴史的背景について、このたび次郎が説明するにゃん。

釜ヶ崎、むかしむかし

たび次郎
たび次郎

釜ヶ崎は、昔、摂津国・大阪府西成郡今宮村(のちに今宮町)にあった地名なんだけど、今は環状線と南海高野線の新今宮駅から南へ南海線沿いに府道堺筋までの萩之茶屋1〜3丁目の一部を主に指す地域の通称なんだ。昔は浪速区恵美須西三丁目・恵美須東三丁目・戎本町二丁目の一部も含んでいたらしいね。

さとこ
さとこ

そういえば、釜ヶ崎という住所はないのよね。

たび次郎
たび次郎

そう。今は主に西成区萩之茶屋・太子なんかのことを指すね。

さとこ
さとこ

釜ヶ崎の名前の由来は何かしら?

たび次郎
たび次郎

「崎」って言うように、この辺りは江戸時代に干拓された低湿地で、木津川河口のすぐ側だったんだにゃ。それで、塩焼き釜があったとか、崎の形が釜に似ていたから、とか諸説があるよ。

たび次郎
たび次郎

堺筋は今は地下鉄も通る幹線道路だけど、紀州街道が堺につながるのでそう呼ばれてきたんだ。江戸時代後期には、紀州街道通にはたくさんの人が大阪に働き口を求めて集まってきて、その入り口に当たる今の「でんでんタウン」界隈の長町には旅籠や木賃宿が立ち並んでいたそうだよ。

さとこ
さとこ

長町よりここは少し外れた場所だけど。関係があるの?

たび次郎
たび次郎

大ありにゃ。まぁ、聞きなさいよ。

学校で日本史は習っただろう?江戸時代の終わりごろは飢饉が続いて大変だったにゃ。大阪だって、働き口が無限にあるわけじゃない。仕事にあぶれた人たちが故郷に帰るに帰れなくって、街道沿いに住み着き始めた。長町裏、と言われたんだが、釜ヶ崎の一部も長町裏に含まれていたのだな。

さとこ
さとこ

なるほど、当時の大阪を行き交う旅をする人や、非常時には暮らしに困った人たちが住む所になっていったんだ。

明治、大正ー政治に翻弄される町

たび次郎
たび次郎

さとちゃん、通天閣がいつできたか、知っているかい?

さとこ
さとこ

えーっと、初代通天閣は1903年の内国勧業博覧会の時だと習いました。

たび次郎
たび次郎

そうにゃ。博覧会の塔自体はイベントが終わって撤去されたんだけど、博覧会ですごい人気だったので、改めて建てられたものなんだ。今の通天閣は初代通天閣にパリのエッフェル塔と凱旋門をミックスしてデザインされた物なんだにゃ。

それでにゃ、勧業博覧会に先立って、兼ねてから不衛生で治安も悪かった長町裏スラムが一掃されてしまったのよ。

それで、長町裏スラムでも、大阪の市街地よりに住んでいた人たちがちょっと離れた釜ヶ崎に大量移住させられたわけ。

さとこ
さとこ

そういうやり方って、今も昔も変わらないのね(怒)

昭和から現在ー経済の繁栄と失墜

たび次郎
たび次郎

第二次世界大戦で大阪は焼け野原になったが、復興も力強かった。60年代後半からはの高度経済成長と大阪では万博景気で、建設ラッシュを支える建設労働者の求人が増大したにゃ。

さとこ
さとこ

その頃から「あいりん地区」って呼ばれるようになったんでしょう?

あいりん総合センターができたのもその頃ね。(1970年10月)

たび次郎
たび次郎

1966年に国や自治体などの行政機関と報道機関が、この辺りを、「配慮の必要な街」ということで、「あいりん地区」と呼びましょう、と勝手に決めたにゃよ。今はあまり言われなくなってるけどね。

それまでは難波や「ミナミ」で働く女性や家族も居たんやけど、この地区ではない公共住宅に誘導されたりして、この頃から釜ヶ崎は「港湾や建築現場で働く日雇い労働者のまち」になったんやにぁ。

たび次郎
たび次郎

とにかく、あの頃の釜ヶ崎の賑わいはすごかったね。港湾、製造、販売、土木、雑役、給仕・・・さまざまな日雇い労働を求めて西日本中から人が集まった。

釜ヶ崎は、雇用者と労働者が直接交渉して仕事を見つけることが認められた「寄せ場」として、1986年には2万4000人を超える労働者が住んでいたんだ。

朝5時にはセンターが開くから、4時半ごろから続々とみんなが集まってきて仕事を求める街やったんにゃ。

さとこ
さとこ

でも、その労働者たちは、ドヤ(簡易宿泊所)に住んでいたから住所がなかったのよね。「若い頃だったから平気だった」って、おっちゃんたちは言うけれどね。

たび次郎
たび次郎

日雇い労働の賃金は、「ひ孫受け」くらいだから、賃金は中間業者に「ピンはね」されたり、ちょっとした怪我や病気でも厳しい現場では仕事を続けることが難しくて、貯金をして将来に備える余裕はなかったにゃ。

それでも行政が作った「あいりん銀行」っていう日雇い労働者の銀行に少しずつ貯金する人もいたけどな。

人口に比べて宿泊施設も不足していたから路上で生活する人も出てきたにゃ。工事や仕事の現場が休みに入るお盆や年末年始は特に野宿の人が増えるんやにゃ。

とにかく、キツい労働環境と待遇の悪さや、差別的な扱いに60年代か70年代にかけては、暴動も多かったにゃ。西成暴動とか釜ヶ崎暴動として有名になって、釜ヶ崎のイメージができてしもたけど、実際には暴動は73年以降は起こってないんや。

さとこ
さとこ

それで、釜ヶ崎は怖い町、っていうイメージが広まったのね。そんな前のことだったのね。

たび次郎
たび次郎

17年ぶりに90年に暴動が起こったのは警察が地元の暴力団から賄賂をもらっていたことが発覚した時。

その後92年に景気が悪くなって生活に困る人が大勢おった時に行政が貸付金出すって言うたのに、予算がなくなったからってすぐやめてしもた時や、20年ほど前にも警察の扱いが悪くて抗議して、みんなが騒いだこともあったにゃ〜。

さとこ
さとこ

一度悪いイメージ持ったらそれが長い間に偏見で定着してしまう例だね〜

たび次郎
たび次郎

でもな、今でも毎日500人近い求人があるんや。高齢者が多くなったり、少のうなったと言っても働きたい人がおる「寄せ場」として生きている街でもあるんだにゃ。

さとこ
さとこ

そうだよね。釜ヶ崎だって他の街と同じように、そこに生きている人がいる、生活がある場所なんだよね。

さとこ
さとこ

そんな釜ヶ崎に旅路の里ができたのは1982年。ここから先は、「旅路の里の沿革」でみてね。>>旅路の里の沿革

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