来たらだいたい、なんとかなる町英神父の旅路エッセイー第4回

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来たらだいたい、なんとかなる町

 今回、3回目に釜ヶ崎にかかわることになった。もともとは神戸の六甲教会に派遣されて、それに合わせて、釜ヶ崎の旅路の里の責任者も引き受けることになった。教会の仕事が中心でありながらも、また釜ヶ崎にかかわることになったのは、大きな喜びであった。

変わりゆくまちと変わらないもの

 20年ぶりにカマに足を踏み入れてみると、町並みの変わりようにかなり驚いた。以前はかなり汚い町並みだった。何とも言えない汚臭がして、野犬がいて、怪しい露天商が店を広げ、シャブの売人が立っていて、反社系の事務所もあった。近隣の公園など野宿者のテントで溢れていた。その猥雑な感じが何とも言えない魅力だったが、その反面、怖い・汚い・危ない町というレッテルを貼られていた。ところが、最近は、道路がきれいになり、ゴミが減り、変な匂いもしなくなって、かなりきれいなのだ。一段と老人が増えていて、さらに、インバウンドの影響で若い外国人旅行者で溢れている。怪しい雰囲気の人が減り、一見すると、普通の街に近づいていている印象もある。

 その背景には、反失連に支えられたNPO釜ヶ崎支援機構の地道な活動や、釜ヶ崎のまち再生フォーラムによるネットワーク型市民運動の貢献がある。さらに、橋元市長のもと、西成区特区構想というものがあり、かなりの資本が投入された結果でもある。

 もともと労働者の町だったのが、だんだんと高齢化して福祉の町に変容している。確かに福祉の充実には驚かされるところもある。生活保護を受け、訪問介護や就労継続支援B型事業所などかなり充実している印象がある。町中をケアマネジャーやヘルパーのような人をよく見かけるようになった。そして、若い外国人労働者の姿(旅路のすぐそばには、アジア人のための日本語学校がある)と外国人観光客の姿(それ専用のホテルもすぐそばにある)もよく見かけるようになった。

 表面的に変わっている点は多々あるが、何が変わっていないのかも気になるところだ。シャブの売人は見かけなくなったものの、今でもすぐに買えますよと知り合いの労働者は言っている。反社組織は表だっては見えないが、福祉系の分野にかなり進出していて、いわゆる貧困ビジネスを広範囲に展開している。実際、彼らは炊き出しまで行っている。負の遺産を継承している面もある。

 それでも、カマのもともとの良さがそのまま残っていることも確かだ。それは誰でも受け入れ、助け合いの精神で生きている面である。以前に町のブランドイメージを高めるために、電通もかかわって作ったキャッチコピーに、「来たらだいたい、なんとかなる。新今宮ワンダーランド」というものがあった。このプロジェクトには知り合いの支援者がいっぱいかかわっていたが、ブログが大炎上してしまい、今は日の目を見ることはなくなってしまった。このコピーを私自身はとても気に入っていて、「来たらだいたい、なんとかなる。」というのは、言い得て妙である。個人的に、大阪市西成区のブランドイメージ向上にあまり大きな関心はない。しかしながら、実際に困った人がカマに来た場合、「来たらだいたい、なんとかなる。」はそのとおりなのだ。

来たらだいたい、なんとかなるーいやしの街

 今回は2年ほどのかかわりで、いやしのミサをしている程度であるが、その中で知り合った比較的若い男女の住人(しかも何かしらキリスト教に興味のある人たち)の話を聴いていると、生活が破綻して、この釜ヶ崎に流れ着いた人たちである。そして、来たらだいたい、なんとかなるように、なっているのだ。まず、飢えないように、炊き出しがある。それでなんとか食いつないで、シェルターに泊まって野宿から脱して、そのうち福祉につながって、生活保護を受けるようになる。最初から、そのとき出会った仲間(つまり、同じ境遇の者)同士で助け合って生きていけるようになっている。それを目の当たりにして見ているので、釜ヶ崎の町そのものがいやしの町ではないかと思うようになった。これは昔も今も変わらないカマの良さである。

 「来たらだいたい、なんとかなる。」をみことばで言うならば、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11,28)となる。カマでは、この言葉が抽象的でなく、シェルターで寝るところが確保され、炊き出しで飢えをしのぎ、支援者とどう生活を立て直していくかを相談し、仲間に支えられながら、できるところから歩み出すのだ。これが町としてできるのは、日本で釜ヶ崎だけであろう。ここは今でも福音が生きている町だと確信しいている。

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