7月のいやしのミサのお説教
マタイ福音書10章34節-11章1節「滅びの連鎖を断ち切る」
福音朗読 マタイ福音書10章34節-11章1節
34:「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35:わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
36:こうして、自分の家族の者が敵となる。
37:わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38:また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39:自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
40:「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
41:預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42:はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
1:イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
滅びの連鎖を断ち切る
今日はマタイ10章の最後のところですね。マタイの10章全体が福音宣教の心構えを書いている箇所なんですけどね。宣教とも言えるし、伝道ともいえる。心構えの最後のところなんですが、これがなかなか厳しいんですよね。
なんとなく平和、はイエス様は求めていない
私が来たのは地上に平和をもたらすものだと思ってはならないっていう。平和ではなく、剣をもたらすために来た、という。イエス様の言葉は時々厳しいところが出てきますけれども、剣をもたらすために、やっぱり来られたということですから、かなり厳しいですよね。もちろん他の聖書の箇所で、イエス様は平和をもたらすために来たっていうような感じで書かれてるところもありますが、ここは厳しく、剣をもたらすために来たというふうに言ってるわけです。ここで言ってる平和は多分、何となく平和っていうか、問題がなければそれでいい、みたいな感じで、何か問題があんまり出てこない、そういうちょっと表面的で安易な平和をイエス様は求めていないということなんですよね。
今日のこのミサのテーマは癒しですけど、やっぱり例えば癒しということを考えたときに、何が病んでるのかっていうんすかね、何が問題なのかがわからないと手術ができないし、何が問題かわからなければ、何の薬飲んでいいかもわからないわけだから、実は癒しが起こる前には、何が病気で何が悪いかって、どこが問題なのかがクリアにならないと、実際のところは癒しはないんですよね。
私達が病む原因は、家族からのことが多い
だからこの後がやっぱ厳しいですよね、この、人を父に娘を母に嫁を姑に自分の家族のものが敵となるって言ってるわけです。私達は何となく家族はみんな仲良くしなきゃならないって思ってますけど、でもイエス様は家族が分裂するっていうか、そういうことを逆に言うわけですよね。ひっくり返して言ってるんだけど、これはもうなかなか考えさせられるところの大きなポイントの一つです。結構、私達が病む原因は、家族から来てるっていうことです。全員じゃないけど、多くの人は家族から何か問題を引きずってるっていう人は、多々いますよね。
ここに集まっている皆さん全員そうかどうかわかんないけど、でも多くの人はそういうことが実際ある場合がやっぱり多い。結局、自分の父親とか、自分の母親とかがちょっと合わないかとか、相当合わないとか、そういう敵対関係にあったとか。あるいは結婚した自分のパートナーが最悪最低ってこともあるし、あるいは自分の子供がですね、とんでもないわんぱくぐらいだったらいいけど、相当やんちゃで少年院でたり入ったりとかなんかなんかいろいろ、結局家族の繋がりってなかなか。結局私達の家族って、結局自分の支えになって安定するものでもあるけど、でも結局その家族から受ける打撃っていうのは、やっぱなかなか厳しいものがあるのも確かじゃないかなと思うんですよね。
それはやはり結局なんですかね、自分のこともそうですけど、苦しんでる人を見てると、やっぱりそのそういうことを根に持ってる人もやっぱ多々おられるので。だからですね、剣をもたらすために来たっていうんだから、剣ってのは何のためにあるかって言ったら切るためですよね。本当は戦争したりするためですけど、やっぱり決意が必要なときありますよ。
つまり何か変なものを切り落とさなきゃならないっていうんすかね。何か変なものはズバッと切らないと、結局いつまでもいつまでもグジュグジュっていうことになっちゃったら、結局私達はこの悪循環から出られないっていうことですよね。これはなかなかなかなか難しい。ちょっと今日いるかどうか皆さんがいるかどうか、例えば依存症をね、いろんな依存症ありますけど、多くの場合はやっぱりお父さんかお母さんがいい依存症、あるいはおじいちゃんおばあちゃんが依存症とか。だからもう何か縛られてるんですよ、ずっと。どっかで誰かが断ち切らないと。だから剣が必要なんですよね。
剣を使ってもいい
剣を使うためには、まずどこが悪いかっていうか、だから手術と同じで、やっぱりこの悪いところを切り出さなきゃならないんだけど、悪いところがどこかっていうのがわかって、そこをずばっと切らなきゃなんないよね。いいとこまでずばっと切っちゃったらあかんから。なかなか何がいいか悪いかも、よくよくやっぱり神様の前に見ないとわからないですよね。
どっちかというとちょっと女性の方からそういう聞くことが多いけど、結局やっぱり何て言うんすかね、男もそうだけど、結局何か従順っていうか、親にやっぱり従わなきゃならない、っていうね、やっぱ価値観があるんですけど。やっぱり親を尊敬してとか。結局でも親に何か従うっていうかしてると、どんどん巻き込まれて、なんか親のエゴとか何かでぐちゃぐちゃになって、自分が保てなくなっちゃう人が案外いるので。だからどっかでNOと言ってですね、ずばっと切らない限り、結局囚われたまんまで、苦しみの再生産みたいな感じになっちゃうんですよね。だから神さまは私達に剣をくださってると思いますね。
だから不当に傷つけるために使ったら駄目ですけど、でもやっぱ本当に何か自分の癒しっていうか、自分が立ち直っていくとか、自分らしく生きるためには、どっかでいらんものをちょっとすぱっと切っとかないと、結局ズルズルズルズルなんかぐちゃぐちゃのままでっていうことになってしまうことは、実のところやっぱ多いような感じがしますね。
だからね、物理的に切る。大体もう嫌だったら家を出たりとかね。もう出ちゃったりするんだけど、本当に切らなきゃならないのは心の中のことなんですよね。物理的なこともあるけど、物理的以上にこの心の中に何か縛りができちゃう。この子供の頃からとかの蓄積で。そのポイントをすぱっと、どのポイントというか、どんなところを切るのかというのですよね。
剣を使う前に自分を見つめる
だから、この後半がね、自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失うものはかえってそれを得ると。自分の命を得ようとしているのが何で「滅び」かっていうだから、その自分の命のポイントがずれてるからですよね。自分の命を保とうと思ってるけど結局それは自分のためにならない。
結局、アルコールに巻き込まれたりとか、いろいろある人間関係でも、いつもごちゃごちゃになっちゃうっていうところは結局もう親の話じゃなくて、自分の心の中の話になっちゃうんですよね。それにとらわれてると、結局、命を大切にしているようで結局滅びを大切にしてるから。自分の表面的な命に囚われたり、人を恨んだり憎んだりあるいは何か後ペコペコしちゃったりとかなんとかそういう命を一旦を置かないと本当の命がやっぱり現れて来ないっていうかですね。
だからやっぱどっかで捨てるっていうか手放すっていうかですね、そういうポイントがあってこそ、本当の命、何が自分の本当の命か、なかなかわかんないですけどね、でもやっぱり何か、悲しくてつらくて酒ばっかり飲んでる命はやっぱりそのレベルで命を大切にすることはできないですよね。
そこの、何で酒飲んじゃうのかっていうところの、そこにあるものをすぱっと切れたら、ちょっとは前に進めてくるきっかけが得られるんじゃないかということですね。外科の手術がそうですからね、やっぱ悪いところを特定して、そこを…今はがんとかあまり切らないけど、今なんか穴開けて、ピンポイントでやっつけたりするけども、やっつけてもまたどっかで再発したりするから…なかなか人間の心も同じですよ。もう何かここであれかなと思ったら、こっちの方でまた何か出てきたりしがちだから。でもね、このところがね、根っこのところが切れるかどうか。そこのポイントをちょっとつかめる。神様はそこを私達にやっぱり支援してくださってると思います。
イエス様が私達に与えてくださる癒しは、もう根本的ですよ。新たな自分っていうかですね。この親の縛りとか社会の縛りとか、過去の苦しみやつらさからも、ごちゃごちゃになってる命を根本的に再生してくださるところがあるわけですね。
だから私達は、囚われとか何かを横に置いていく気持ち、あれもこれもって握りしめていないで、それは神様に委ねていくような気持ちになってきたら、心の中に余裕が出てきて、そこに聖霊っていうのかななんか神さまが送ってくださって、ちょっと新たな命の兆しがだんだんとですね、心の中でこう見えてくるんじゃないかと思いますね。
だからある、あるときは勇気を持って剣を持って、人と喧嘩するためじゃなくて、本当に自分の心と向き合うときにですね、そういう気持ちもやはり必要だというふうに思います。それはしっかり自分を見つめる。ということですよね。それはもちろん誰しも自分のことが一番わからないことだから、自分の心をしっかり見つめて。
もちろんね、さっき言ったようにひどいお父さんとかお母さんとかなんかいろいろもう、なんですかねそれをねお父さんのせいにしてもお母さんとしても仕方ない。大人になってるから。だからそこから、どう立ち上がるか自分の問題ですからね。もちろん生きてたら和解するとかしないとか、あるいはもうなんかもう縁切るとか、もちろんその本当の生きてる人とはどうするか、もちろん考えなきゃならないけど。それ以前にやっぱり自分自身の心の中にできちゃってる囚われはしっかり見つめて、少なくともそれに振り回されないようにしながら、タイミングが来たらバッサリ切って。だからイエス様のためにこそ、イエス様のために命を失うものは、かえってそれを得るって書いてあります。
手放すことで神が働く
やっぱイエス様の生き方を中心に置いたときに、自分の命に対する執着が抜けたときに、神様の働きが私達の中に現れてくる。そういう癒しをちょっと大切にできたらいいんじゃないかなと思いますね。依存症の人がね、プログラムとかいろいろ12ステップとかいろいろ自分を見つめ見つめたりするんですけどちょっとそういうことですよね。自分の心の中をしっかり見つめて、自分の過去をよく振り返って、特に「棚卸」ってするんですけどね、自分の人生を。カトリック的に言ったら総告解みたいな、自分の罪を全部思い起こすみたいな、そういう掃除をして、そこから新たな命が歩んでいける力ときっかけを与えられますから。その恵みを信じて歩んでいきたいと思います。
なかなか絡めとられてるんですよね。絡めとられてる私は自由を奪われてますから。だからそれをしっかり見極めながら、自由な気持ちになって本当の意味の自分らしさと自分の良さですよね。それを生きていけるように。それが僕は本当に一番大事なことだと思いますから。その恵みが私達1人1人に与えられるようにですね、神様に力を願いましょう。