英神父の旅路エッセイー第3回
貧しい人は幸い
私が2度目に釜ヶ崎に来たのは、20年ほど前である。
バブルの崩壊が1990年代初めにあり、それを機に日本経済は低迷するようになった。それから1990年代後半は釜ヶ崎の冬の時代であった。野宿者が1000名を超え、炊き出しに並ぶ人も数え切れないほど。自死する人も多数だった。
反失連からNPO法人釜ヶ崎支援機構、釜ヶ崎のまち再生フォーラム
私がカマに入ったのは、2,000年代初頭だったので、バブル崩壊の最悪期から何とか脱出しようとしている時であった。労働組合とキリスト教協友会者のメンバーが中心となって、「反失連(釜ヶ崎反失業連絡会)」が結成された。行政闘争を繰り返し、特別清掃事業という仕事を勝ち取り、ついには、「NPO法人釜ヶ崎支援機構」という組織を作り、労働者に対する幅広い労働支援を展開していくことになる。また、このままでは釜ヶ崎の町そのものが滅んでいくという危機感から、さまざまな団体がネットワーク的に連絡をとって、町そのものの再生をめざそうとする、「釜ヶ崎のまち再生フォーラム」という市民運動も展開されるようになった。その2つの動きを軸にして、釜ヶ崎は絶望から希望を見いだそうとする広範な動きが起こり、町として最後の盛り上がりを見せていた時期だった。大きな苦難が襲う時、それを乗り越えようとする人間のしぶとさを垣間見るような思いだった。
そのような時期に、私は旅路の里の責任者として、実際に釜ヶ崎に住み、そこの空気を吸いながら、活動をすることになった。
貧しさはなぜ幸いなのか
貧しさへの憧れと矛盾
修道者として自分の中にあったのは、貧しさへのあこがれである。福音書を読む限り、イエスの望みは貧しく生きることにあると思う。例えば、「貧しい人は幸いである」(ルカ6,20)、「財産をすべて捨て去る者でなければ、私の弟子ではない」(14,33)など、それを示唆する箇所は散見される。そういう面から、釜ヶ崎で暮らすことは心の中の強い願いであった。
実際、釜ヶ崎に暮らすことによって気づいたことはいくつかある。釜ヶ崎は社会の最底辺に位置する町とも言えるので、そこにいると、この社会がいかに矛盾に満ちたところなのか、資本主義の負の側面をはっきりと見ることができた。普通の社会では隠されてものが、貧しい者の側からは明確に見えるのだ。例えば、夜回りの時、野宿者と話をしていると、俺は履歴書を出すことができないから、就職できないと言うのだ。なぜ履歴書を出せないかというと、字が書けないから。現代の日本でも、字が書けない人は実は数多く存在している。日本の教育は一見素晴らしいものに見えるが、子どもの頃、学校に行く機会に恵まれず、字の読み書きが不自由になってしまい、そのような境遇から日雇い労働をするしかない人たちが一定数いるのだ。そのような現実から、釜ヶ崎で識字学級を開くことになるのだが。
私の中では、当時の旅路の里のぼろ建物で暮らせるのは、少しは貧しさを味わっているような喜びもあった。しかしながら、現実はそれほど甘くない。教育を受けていない労働者と接しているうちに、自分は貧しくないのだと思うようになった。ボロい家に住んでいても、子どもの頃からちゃんとした教育を受け、高等教育まで享受できた。また、ボロい家に住んでいるといっても、イエズス会という大きな修道会のメンバーなので、生活に困ることもないし、老後は面倒見えもらえるので、将来に何の心配もない生活を送っている。
本当に貧しいからこそ
貧しさという言葉には、子どもの頃からの痛みや辛さ、家庭や教育に恵まれず、生活の不安定さや差別など負のものが詰まっているものだ。今でもそうだが、「貧しさ」という言葉を私はほとんど語らない。というか、語れないというか。その福音的価値を真に見いだす、その前提にある恐ろしい現実にたじろんでしまうからだ。でも、貧しいがゆえに、そこから何とかしていこうとする動きが生まれてくる。前述の反失連や再生フォーラムの活動は、貧しいがゆえに何とかしないとだめだという反骨心というか、追い込まれた人間の底力が原動力だ。貧しさから新たな希望が生まれる、ということを教えてくれたのも、カマの町とそこに住む人びとからである。だから、貧しい人は幸いと語ることができるのだ。