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英神父の旅路エッセイー第2回

tabijinosato

釜ヶ崎との出会い

 私が初めて釜ヶ崎を訪問したのは、大学生の時だった。今から約40年前のことだ。20歳の時、タイにあったカンボジア難民キャンプのボランティアに行ったことがきっかけになり、洗礼を受けた。受洗とボランティア活動がほぼ同時だったので、信仰者として生きることと、ボランティア活動が初めからつながっていた。

道を探して釜ヶ崎へ

 その頃、イグナチオ教会の主任司祭だった薄田昇(すすきだのぼる)神父が釜ヶ崎に入り、古い簡宿(簡易宿泊所、通称ドヤ)を買いとり、今の旅路の里を始める準備をしておられた。薄田神父は私が高校生の時からの知り合いだった(その頃、彼は六甲教会の主任司祭で、私は近くの高校に通っていた)。彼の頼みで、留守番役で旅路の里に宿泊するようになったのが、釜ヶ崎とかかわるきっかけであった。

薄田昇神父

 当時、日本の経済成長が頂点に達していた時期であり、釜ヶ崎には多くの日雇い労働者がいて、活気あふれる町であった。私自身は第三世界にかかわっていたので、日本社会の閉塞感に辟易とし、逆にフィリピンやタイに行ったときのその素朴な生き方にいやされていた。そのような時、釜ヶ崎に来ると、日本の中の第三世界のような、何かわくわく感というか、既成の概念に囚われていない自由さな雰囲気に何か居心地のよいものを感じてた。それでも、当時から野宿者が多数おられ、50歳を超えて仕事に就けない人びとの困窮する暮らしぶりも明らかであった。とてつもないエネルギーを感じながら、弱い者が平気で使い捨てにされ、虫けらのように路上で死を迎えざるをえない窮状に大いに心を痛めていた。貧しい者が露骨に食い物にされて、富める者が富んでいく資本主義の基本構造があらわになっている場所でもあったのだ。

 当時、釜ヶ崎で活躍していた団体は、労働組合とキリスト教協友会であった。組合は、労働者の不当なピンハネや差別などと闘い、協友会は福祉的な活動に従事していた。旅路の里はもともと結核患者のリハビリ施設として出発した。当時の結核患者は退院した途端ただ路上に放り出されるだけだったので、元結核患者が実際に住み込んで、自立を助けるサポートハウスとしてスタートした。しかしながら、そのようなリハビリ的な役割はうまくいかなった。そのうち、旅路の里には若い支援者が集まるようになり、活動家の拠点として、社会活動センターのような役割を果たしていくようになった。

 そこに多くの若者が集まっていた。彼らは皆、将来の道を探していた。私もそうだった。大企業に働くことは、資本主義に加担して貧しい人を搾取するような罪悪感を覚え、とても就職する気にならなかった。ただ、貧しい人のために何か役に立つ仕事を探していたが、多くは専門職なので(例えば、弁護士とか医師とか)、自分には無理だと思っていた。釜ヶ崎に通うのは、貧しい人のために何かできる道を探していたということもあった。ついに薄田神父と話をして、旅路の里においてもらって、専従スタッフになる約束をした。それが私がした唯一の就職活動だった。

神様に勧誘されて、一旦釜ヶ崎から離れることに

 ところが、釜ヶ崎行きを準備してた冬、クリスマス前にゆるしの秘跡にあずかった後、空が真っ青でとてもきれいだなと思った瞬間、自分の心が真っ青で晴れやかになったのに気づいた。その瞬間、聖母マリアのものすごい恵みが心に注がれてきた。そして、神の愛に圧倒された中で、自分はカトリック司祭になるしかないと決意した。神さまの強引ともいえる勧誘のよって、私は釜ヶ崎で働くことはやめて、イエズス会に入会した。そのときのマリアさまの思いが分かる。それは、私が司祭になって、心の貧しい人びとの魂の救済に尽くすようにという願いだったのだろう。それが私に与えられた使命だった。その後、カトリック司祭になったが、釜ヶ崎とかかわりは断続的に続くことになる。

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