6月のいやしのミサのお説教
マルコ福音書4章26-34節「苦しい時こそ振り回されずに」
福音書朗読
列王記上21章1-16節
これらの出来事の後のことである。イズレエルの人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていた。畑はサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。
アハブはナボトに話を持ちかけた。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。」
ナボトはアハブに、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言った。
アハブは、イズレエルの人ナボトが、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない」と言ったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった。
妻のイゼベルが来て、「どうしてそんなに御機嫌が悪く、食事もなさらないのですか」と尋ねると、
彼は妻に語った。「イズレエルの人ナボトに、彼のぶどう畑をわたしに銀で買い取らせるか、あるいは望むなら代わりの畑と取り替えさせるか、いずれにしても譲ってくれと申し入れたが、畑は譲れないと言うのだ。」
妻のイゼベルは王に言った。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」
イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。
その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。
ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」
その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。
彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。
ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。
彼らはイゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。
イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに言った。「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」
アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。
マタイ福音書5章38-42節
38:「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
39:しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
40:あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
41:だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
42:求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
お説教
今日の第1朗読がですね、列王記の上の21章のところに書かれている。このアハブとですね、奥さんのイゼベルのお話なんですが、この2人がめっちゃめっちゃ悪人っていうか罪人タイプで、今日のところもちょっとなかなかなもんもう自分の宮殿の横にブドウ畑があったんですよねなぼとナボトが持ってて、だからそれをなんか譲ってくれと、ちゃんと代金払うからって言ったんですけど、でもナボトが先祖代々の土地だから、いくらお金積んでも譲れませんと、言ったんですよね。
アハブとイザベルのような私たち
いくら王様でもね、勝手に奪いとるわけにはいかないから、だから半分はもうすっかり諦めてしまって、機嫌を損ね腹を立てて宮殿に帰ってきて、神殿にこもってて食事も摂らなかったっていうかなんか、もうすっかりふてくされて、でも完全に腹立ててですね、そこまでだったらもう何もなかったけど、妻のイゼベル、これが旧約聖書最大の悪女なんですね。もう悪い女の一番すごい人なんですけど、旦那が機嫌悪くて食事もしてないんで、尋ねたら、かくかくしかじかだと、その隣のブドウ畑を手に入れられなかったって言ったら、私が何とかしましょうと言ってですね、結局その手紙を書いてですね、ナボトが住んでいる町の長老と貴族に、手紙書いてですね、とにかく断食を布告して、ナボトを最前列に座らせて、ならず者ですね、ヤクザを2人雇ってナボトか神と王を呪ったっていうんで証言させるわけですよね。
今みたいに証拠がないから、結局昔は証人しかないですよね。テープレコーダーもないし写真もない時代だから証拠がないんで、大体2人の証人からその証言が取れたら、その確かだとなるわけですよね。それで結局ナボトを殺しちゃって、でもって、このアハブが、ナボトの、ブドウ畑を手に入れたって話なんですけどね。本当に、このアハブ王とイゼベルと戦ったのがエリアなんですよね。預言者エリアがもう、もうバチバチにずっと戦ってたんだけど、でも相当悪いやつっていうか、旦那さんも奥さんも、両方悪いやつですけど、でも結局よくよく考えたら、私達も何か嫌なことがあるじゃないですか。人生の中で、何か人間関係がどうのこうのとか自分の思い通りにいかないことって世の中には、それも度々起こることですよね。
そうすると、アハブみたいにすねて、食事もせんと、ふて寝して、何か、もうちょっとレベル?が高いというか、イゼベルみたいに復讐をする。凝った形でいろいろと・・・なかなかそれはやっぱり、なんか知力と胆力がないとできないけど、泣き寝入りしないわけでしょ。
泣き寝入りせずに、そこからもうとにかくいろいろ、倍返し、倍返しな感じで復讐して相手をやっつけるか、そういうイゼベルまで行けないけど、結局、復讐できたらどれだけすっきりするかなって思ったりもしますよね。
大体はできないから、アハブみたいにふて寝みたいな。それは罪にならないけど、イゼベルみたいにやると、ちょっとやばいなって感じにはちょっとなんなっちゃいますけどね。ちょっと極端な例だけど何か私達にもありそうなお話でもあるわけですよね。
困難に出会ったときにどうするか
でも嫌なこととかつらいことがあったときにどうするかってことなんですよね。私達は、やっぱり傷ついたり、ムカムカしたら、やっぱり癒されたいし、なんか元気を取り戻したわけですけど、でもイエス様の言葉はちょっと大したもんですよね。
大体当時の法律は「目を歯には歯を」ですから。どういう意味かって言ったら「目には目を歯には歯を」っていうのは、倍返しは駄目だってことなんですよね。だから片目が潰されたら、相手に対して片目を潰していいけど、両目つぶしたら駄目っていう。倍返しは駄目なんですよね。でもやられた分だけはやっていいけど、それ以上は駄目っていう。そういう法律なんですけどでも、イエス様はすごいですよね。「悪人に刃向かってはならない」。あの有名なね、聖書知らない人でも大体知ってる、「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」っていうですね。やっぱり右の方を打たれたらもうそれだけでもう、もうメンタルやられるっていうか、メンタルやられるか、もうなんか復讐劇っていうかね、もうどうしてやり返してやろうかという。
そこでまた左の頬を出したらですね、それはもうなんかボロボロにやられるばっかりで、もうなんていうか、生きていけないっていうか、やられっぱなしは人間やっぱり生きていけないんだみたいにね、もう何かもう権力者にあれされて、殺されて、なんだかんだと巻き込まれて結局いいことなしなわけでしょ。そんなのに、右の頬を出して左を出すって、そんなお人好しのことは、これ普通だったらできないことだし安易にやったら駄目って、ちょっと思いますけれどもね。
これも実際はね。イエス様は何を言いたいのかっていうことですけど、それは私達は傾向としてアハブとかイゼベルのようになっちゃうことが多いですけど、やっぱりそうじゃない別のものの見方っていうのかな、この立ち位置というか、考え方っていうか、それをできるかどうかっていうことが実際私達に問われていることだと思いますね。
右の頬を出して本当に左の頬を出せるとしたら、それはただ単に何か被害者になって巻き込まれてね。この1回詐欺に遭った人は2回あいやすいんですよね。
僕の知り合いでも言いますよ。1回詐欺に遭って取られてるんですよね。1回取られたらブラックリストに載っちゃうんですよね。だからもう1回やられるっていうか、これでほぼ全財産を失ったその人はかわいそうですけど。だからダブルでやられてくる。大体1回被害にあうとボコボコってやられるんですよね。もうそれは犯罪組織の怖さですけどでも、イエス様はそういうを認めてるわけではなくて、やっぱり自分が傷ついたり病気になったりいろいろあるけれども、そこでやっぱりしっかりした自分を保つことができるか。
自由を失わないことが大切
そういうときこそ心を戻して、神の恵みの中にある自分に立ち戻ってですね、そして自由な心で自由な判断ができるかどうか。ということを実際は問いかけていると思いますね、本当のところは。嫌なことがあって、嫌なことに振り回されたり、反応したり復讐したりっていうのは何が問題かって言ったらですね、やられてることよりも、自分の自由を失ってることの方が大きな問題だと思います。
振り回されてるわけですよね。周りの人に、あるいは場合によっては病気とか何か苦しみに振り回されてしまうと、もう出口がないわけですよ。でも嫌なこととかそれから人間関係であれ体のことであれ、仕事のトラブルであれ、それをしっかり受け止めて、イエス様とともにそれを受け止めて、そこから自分がどうしていくかをしっかり考えて、行動できるかどうか、イエス様の心に合わせてですね。でもね、それはね本当に相当の強さがいると思いますね。
本当の自由さっていうか、やっぱり強い信仰がやっぱり必要だと思います。それを受け止めて振り回されないでそこから自分がその状況の中でも何をしていくべきなのか、どういうことにすることが本当の解放に繋がるのかっていうことでね。
だから単に逃げたり、怒ってとか、あるいはさっき言ったようにね、復讐したりとか、でもそれは全部巻き込まれている。その出来事なりその人なりに、その巻き込まれてる自分を置いて、神様とともに、やっぱり祈りの中で、そういうときこそどういう選択ができるかどうかですよね。
病気のときはその一つですよね。自分の病気、家族の病気でも振り回されちゃって、もう何が何だかわかんなくなってるときにやっぱり自分の心を神の前に置いて平静な心に戻ってですね、そこから自分がどのような態度で何をしていくかっていうことをよくよく考えて、次の一歩を踏み出せるかどうか。
神とともに、愛の一歩を、踏み出していくかどうか
今日は癒しのミサですけど本当の癒しはそこにあると思います。実際はいろんなことがあったとしても、そこで自分が今どう心の平安と、この平安を保って、そこからどのように神とともに、愛の一歩を、踏み出していくかどうか。それは簡単ではないですよね。でもやっぱり私達はそのときにこそ、苦しいときにこそ神に向き合って、本当の自分の不自由さを受け止めるかどうか。自由な心に戻して、そこから本当の何か自由な選択の歩みを一方、自分が踏み出すことができるかどうかで主は力を与えてくださると思いますね。
それを私達がやっぱり願わなきゃならない。この右の頬を打たれて、そこでやっぱり立ち止まってその後どうするかですよね。場合によってはもちろん左の頬を打たれないように距離を置いた方がいいこともありますよね。やっぱりやられっぱなしにはできないけれども。でもそこで愛の心から、自分を守って、相手のことも考えて次の一歩をどう踏み出していくのかっていうところに、「こうすべきだ」というよりは、そのときこそイエス様とともに選択ができるか、より良い選択をできるという恵みを願いたいと思う。
まあ、いろいろ右の頬も打たれることはよくありますけど、い知り合いのある奥さんで、もう旦那さんが最低の人間で、とにかくいろいろいろいろいろいろ旦那からやられて、若いときにもう、もう機会あったら毒殺してやろうととかって思うくらいだったんですよね。でも結局、おじいちゃんおばあちゃんになっちゃって、おじいちゃんの方がもう全然駄目で、介護が必要になっちゃったんです。結局、そんなにやられた旦那を奥さんが介護しなきゃならなくなったんですよね。
僕は相談というか、話したときに、僕は割とドライなところあるから、「今はチャンスじゃないですか、毒殺するチャンスが巡ってきた、以前みたいに賢く考えてやったらどうですか」って言ったんだけど、でもそしたら奥さんは「いやそれはできません」と。やっぱりよくよくお祈りして、結局その旦那さんの世話を最後までして、看取ったんですけどね。
それはもう右の頬を打たれたら左の頬も受けるっていうことですよね。でもやっぱりそこで覚悟を決めてどうするか。だからそこで毒殺しなくたって、ほったらかしだって良かったわけでしょ。だってもう、それはもう本人が不摂生してるから自業自得で、もうほっといて、知りません、というふうにしたってよかったわけだけど、でもよくよく祈って、でも結局自分がやっぱり世話すると。皆さん中でもやっぱおるでしょう、毒親に捨てられて育てられたとか。とんでもない毒親に育てられて大変な人生を送って、結局、介護が必要とか動けないとか、認知症とか、もう車いすも駄目で寝たきりでその毒親を介護する。最後、息子として娘として、介護するかしないという。それに迫られている人が何人もいますよね。それはもちろんね、立派な親で愛情深い親だったらもうそれは喜んで最後までね、面倒見ましょうと思うけど、ひどいことばっかりされてきてですよ、そこで最後のことできるかどうか。もちろん、もうほったらかしのお子さんもいっぱいいますよね。
もういい気味だっていう人も、何か言ってきても全く会わないし葬儀すらしないとか、最後の最後でも、復讐までいかないけど、それは親の自業自得だなって思うこともありますけど。でも人によりますね。それでもやっぱりよくよくお祈りして、毒親でも最後まで面倒を見て、ていう方もおられます。私は別にどっちをしろとは勧めないですよ。人によりますからね。僕はもうね、それはもうやっと離れるチャンスなんだからもうほっといたらいいと実際ほっとく人もいるし、それはもう親にすれば自業自得でしょう。散々悪いことやってて、もう最後の最後はもうそりゃね、孤独の中に死んでたって、僕はそれは別にいいと思いますけれども、でも人によります。
そこでやっぱりよくよく考えてどうするか、よくよく祈ってその人の力があればですよねできなきゃ仕方がないんですけどそこで自分がどのようなことをするかっていうことですよね。それは人間関係でもそうですけど、でも病気になって自分の体がこうなった、そこで何を選択してどうしていくか。
もちろんね、何か医者にかかって、何か非常につらい治療を受けていくっていう選択をしてもいいし、もうその人的な治療はいらないとだから自然に自然に死んでいく道を歩むと言って、過度な治療を拒む人もいるしでもやっぱり自分の命ですからね。あるいは自分の家族の命をどのように大切にしていくかっていうことは、やっぱり一人ひとりの大きな選択があるし。でもその選択をするには、やっぱり自分が神に支えられていて、神様から自分が愛されていてですね、自分自身も神とともに自分の足で歩んでいけるっていう、なんかそういう気持ちの中で、やっぱりするべきことだと思います。何となくダラダラとズルズルと巻き込まれてっていうよりは、どこかで立ち止まって、自分がどうするのか、どうすることがこれぐらいはできるし、これが一番できないとか、自分の力加減もあるし、状況もありますから、その中で自分が本当に何を選んで何を選択していくのか。
自由な心で選択を
それが、僕はイエス様が何て言うんですかね、望んでおられることだと思います。べき論でこうすべきだとかをすべきではないとかっていうことではなくて、やっぱり本当に自分の心に問いかけたことを困難の中でこそ、自由な心でやっぱ選択しなきゃならないですよね。
病気の中であったって、困難の中であってもですね、それはもちろん難しい。でも主は必ず手助けしてくださると思います。自分にとって一番いい選択は何なのか教えてくださいますから、それを本当に忠実に行うことでこそ、私達もイエスの弟子として、歩んでいける、そういう道が開かれていくんじゃないかなと思いますね。それは簡単なことではないですけれども、私達がいつも主と心を繋ぎながら、神様との親しみを大事にしながらですね、前に向かって歩んでいけるように、ともに恵みと力お願いしましょう。